昭和48年10月08日 朝の御理解



 御神訓 一、「食物はみな、人の命の為に天地金乃神の造り与えたまうものぞ。」

 食物は皆人の命の為に下さった物ですからその、頂き方による事を教えられた、ね。いかに頂くか、頂き方その頂く心の状態、例えば肉とか魚とかと言った様な物を、それを不浄の物とか不精進の物だと、そして頂いたら命の為にはならないでしょう。返って困った結果が生まれて来るだろうと思うですけれども、もう食物と人間の命の為に食される物の全てが、天地の神が人間の為に造って下さったんだという頂き方の中から、全てが命の為になるという頂き方、頂く心の状態を教えて下さるものです。
 今日私、此処の所を食物はみな人の命のために下さった様に、難儀は皆人の神に向かう事の為に天地の神が与えて下さったものぞと言う風に頂いて来ました。言わばこの食物訓を応用して頂いたら、そう言う事になるんじゃないでしょうか。昔から艱難難如を玉にすると言った様な事を言われますが、確かにそうでありますその艱難その物を、神様が和賀心が神に向かうために下さったんだという頂き方そこに本当の絶対信と言った様な物は生まれて来るとこう思うんです。
 まあ此処ではそれを一切神愛として受ける。只受けて行くだけではいけません。それが本当に改まる事の上にも、又磨かして貰う事の上にも、一段と信心を進めさせて頂く事の上にも、その難儀と言う物が活用されなければ、応用されなければ、只難儀を難儀と受けているだけでは駄目でしょう。昨日、私は或る方の午後からお取次をさせて頂きましたんですけれども、もう考えて見ますと、もう実におかげを頂いて来ておる。
 もう此処何年間、まあ言うならばもう自分の家だけを目当ての様にしてそのういじめ抜かれた。おかげで私方の店は、あそこの品物ならもう大丈夫、間違いはないと言われる所まで、今日おかげ頂いておると言う事を聞かせて頂きながらそれを思うですね。本当に言わば相手のその方が、神様だったと、神様の身代わりであったと、こう頂けれるところに、いわゆる難儀が光って来る。
 難儀が生きて来る。最近はもう有難い、有難いでとこう本当に勿体ないと言うておりますから、人があなたは、ロマンチストだとその私を評してまあ申しますと言う位に有難い有難いとこう言う、ちょっとそう言う感じの方なんです。その方のお取次をさせて頂、お届けを聞かせて頂きよる中に頂きます事がね、もうその方が見事な、大きな粒のダイヤの指輪をはめておるんです。所がその台というか、指輪の方がです、ちょっと黄味がかったサンプラチナという感じの台に見事なダイヤが入っておる所を頂くんです。
 だからお互いがね、信心の喜びと言う物がですね、あのうとにかくやはり有難い勿体ないという事なんですけれども、有難い、勿体ないというておるだけでは、それこそ、信心のロマンチストだという事になるのです。ですから、あのう問題はその、信心の喜びその物は、大きな粒のダイヤに匹敵するものだろうけれども。
 その台が素晴らしい、いうならば、純金であるとか、またはプラチナであると言う事になって来ないと、その石も光って来ないのです。ですから例えば難儀をお互い感じます時に、愈々その事によって、例えばその方は何と申しましょうかね、お礼とかと申しますかね、非常にお詫びがま強い方です。だからもうお詫びの印に修行が出来る。信心が出来るという感じなんですです。
 ですからね、そのうお詫びの印に例えば普通の者が出来ん様なお参りも御用も出来る。だからその例えば、御無礼なら御無礼が出来ますとその御無礼のおかげで信心が出来るという感じなんです。だからこれでは、いつまでたっても、私はそのダイヤをダイヤとして、光あるものにする事は出来ないと思うですね。お詫びの印が、だからそれが本当にそれが、此の位こんな事を願っておるんだからとか、このくらいの信心はとか、又はこんなおかげを頂いとるのであるから。
 お礼の印にこれくらいの信心は、御用は出来ねばとかいう事ではなく、いつもお詫びということ、そして自分此処ば改まらにゃ改まらなやと言いながら、改まるどころかいつもそのこで失敗しておる。そのたんびにお詫びの信心が出来とるという事であっては、成程その喜びは嘘じゃないの、本当な信心の喜びなんだ。立派なダイヤなんだけれども台が悪いね。ですから私共がです。
 食物は皆人の命の為にと言われる様に、難儀は私共の心が神に向かうて行く事の為の物である言う事になると、和賀心が神に向こうて行く事だと、お詫びの為に信心したくらいの事じゃ神には向かわん。その都度にです例えば改まって行かねば、その都度に磨いて行かなければ、神に向かうと言う事にはならないでしょう。何時も同じ所に居って、只、詫びの為であったら、それより進まない。
 そういう例えば難儀を感ずるとか、痛い痒いを感ずる時にです、その事を通して改まるその事を通して磨く。だから心がいやが上にも、神に向かうて進んで行くのです。という信心をさして頂くときに、成程天地の神が、人間が和賀心が神に向かうて行くと言う事の為に、いよいよ艱難汝を玉にする事の為に、難儀と言う物は造り与えられたんだということが解るです。
 今日はお互いの信心の喜びを、何がしか持っております。それは実に小さい粒のそれはダイヤかもしれません。だからそれと匹敵する、それにおかしくない台が出来なければならない。そこに始めて素晴らしい言うならばダイヤの指輪と言う事になります。玉はとにかく大きくても光っておっても、土台が真鍮やらいうならば、サンプラチナであるとするとです、その光っておる玉まで。
 あれはガラス玉だろうと言う様な事にしかなり兼ねません。ですから私共の信心が、その都度、都度に改まって行く事に研いて行く事にです。精進さして貰うという生き方を頂く時にです、この食物訓は又、只今私が申しました様な所に応用が効いて来る。命の為所ではない、愈々信心は高度なものに、和賀心が神に向かうて行くことの為の、一切すべてであると言う事になって参りますときにです、成程神様が私に求められる。
 神様が私に与えて下さる物だと言う事が解ります。合楽の方達の場合なんか矢張り皆んなそういう類型が多い様な感じがする。確かに有難いと言っておる。まあそれはダイヤにも匹敵する様な喜びを持っておるけれども、その台そのものが、言わばプラチナとか純金とかじゃないということです。此処ん所を頂いて行く為には、どうでも本気で矢張り改まって行かにゃならん、研いて行かにゃならん事が解りますね。
   どうぞ。